その理由。

数日前のこと、フェイスブックに、死ぬことに関しては数年前から何も怖くはなくなった、と体調が悪いとの報告のついでに書いてしまったのだが、(あそこには、できるだけ暗い投稿はやめようといつも思ってはいるのだが)そのきっかけになったのは「花トレイル」という連載漫画を自分の取材力が足らず、自分から身を引いたことによる。ぼくはそれまで山に登ったことはなく、また山を知る友人も知人もおらず、かといって前作の単行本が売れなかったため、貯金は使い果たし、山を人に教えてくれる事ができなかったわけだ、それでも一人でビビりつつもその時できるところまで登り、そこまでを舞台に「花トレイル」を描いたのだが、所詮一夜漬けに過ぎず、アイデア補すぐに尽きたというわけだ、そして自分から降ろしてくれと頼んだ、(自分から言わずとも終わったかもしれないが)そしてその後は一気に運を使い果たしたように、転落の一途をたどった、他社での予定の企画がつぶれ、雑誌がつぶれ、まるで仕事がなくなった、描かない漫画家は死んでいるようなものだ、見た目は生きているが志もなく心は死んでいる、そんな日々を数年バイトをやりつつ、生活保護にも助けられながら、「花トレイル」の復讐をしたくなった、今度は本格的に山を学び、以前は怖くて行けなかったところまで登り山を知り尽くし、本格的な新しい「花トレイル」を描きたくなったのだ。しかしそのためには技術がいる、そのため高所の岩場を想定して、近場の低山などで岩場の練習を繰り返し、最終テストに秩父小鹿野にある、二子山の上級車コースの岩場に上ることにした、その岩場はほぼ90度で足や手を滑らせただけでも、支えてくれる岩が崩れただけでも、落ちればたぶん死ぬだろう所だ、上っているときにはアドレナリンが出ていたせいか、恐怖も何も感じなかったが、先ほど描いたようなことだけは頭をよぎっていた、「今自分は漫画家として死んでいる、それならばここでしくじり落ちて死のうが、死人は死人だ、同じことだ」僕が死に対して全く恐怖を抱かなくなったのは、それからで、つまり人間として生きているかどうかの問題なのだ。ゾンビが生きて見えても死んでいるのと同じだ。その後はその時点で最善さえ尽くしていたら、同じように全く死ぬのが怖くなくなった、正確にいえば描きたい漫画がなくなったと同時に死んでもいい。わかってもらえるだろうか?